エッセイ「荷風の隠し子」 2025・9・6

“荷風に隠し子がいた”というショッキングなサブタイトルの付いた本を読みました。書名は「荷風 静樹 愛と離別」です。著者はフリージャーナリストの江畑忠彦。江畑は共同通信社で、長年“サツ(警察・検察)まわり”をしてきた事件記者。事件・事故を追いかける習性から「勘の働き」が身についた、とまえがきで述べています。
★平成27年6月、江畑は大学の同窓会で新潟を訪れます。新潟出身の幹事が、新装なった新潟中央日報の本社に案内。その一角に新潟出身の著名人を紹介する「にいがた文化の記憶館」というコーナーがあります。
★荷風に関心を抱いていた江畑は、著名人の中に荷風の2番目の妻、新橋芸者巴屋八重次こと藤蔭静樹の名前を見つけます。八重次は荷風と別れた後、新舞踊の旗手として藤蔭流を創立し、日本舞踊界の大御所になった若き日の藤蔭静樹です。
★案内役の学芸員と話をしていると、彼女の口から「時々、遺族の方がお見えになります」との言葉が出た。「遺族って誰?」「もしかしたら八重次に子供がいたということ?」と驚き、私の頭はグルグルと回り始めた、と江畑は書いています。
★荷風の実子と見られるのは、明治44年7月、荷風と八重次との間に生まれた京都在住の内田芳夫氏です。著者は事件記者の経験から、荷風と八重次に関する資料をくまなく収集し、内田芳夫が荷風の実子である可能性が高いと結論づけます。これは説得力のある推論です。
★この本は荷風の実子を解明するのがテーマですが、それにとどまらず、荷風の伝記という側面もあり、荷風が生きた明治・大正・昭和の時代背景や荷風を取り巻く文豪・歌舞伎役者などが詳述されています。荷風の実像だけでなく、私にとっては断片的な記憶に過ぎなかった歴史的事件が、繋がりをもって浮かび上がる優れたドキュメンタリーです。
★私は高校生の時、荷風の「四畳半襖の下張り」を読んだ記憶があります。巷間「春本」と呼ばれ、性描写が濃厚の、思春期の高校生にはとても刺激的な本でした。荷風は通称「性愛作家」と呼ばれています。私はこの本を読んで、荷風は“好色なエロじじぃ”と断じ、以後今日まで荷風をそのように見てきました。
★この本では、荷風の作品を通じて「性愛作家」であることを余すところなく描いています。一方、彼が慶応大学文学科教授として「三田文学」を立ち上げ、谷崎潤一郎、久保田万太郎、佐藤春夫などの作家を育て、反骨精神旺盛な、時代を切り開いた新進気鋭の文学者としての実績も紹介されています。荷風が「性愛作家」なのか「文豪」なのか、おそらく両面を備えた作家だったのでしょう。
★荷風は明治12年12月、尾張藩士の名家、永井家の長男として東京小石川金富町に生まれました。金富町の永井家は、樹々が生い茂り、ひなびた庭や古井戸を擁する450坪のお屋敷でした。荷風は13歳までの幼少期をこの広い邸宅で乳母、女中、書生、車夫にかしずかれて育ちました。新時代の「山の手のお坊ちゃん」を絵にかいた境遇でした。
★永井家が庶民の暮らしとかけ離れた裕福な生活を享受できたのは、尾張藩士の名家という家柄もさることながら、父久一郎の存在を抜きには語れません。久一郎は幼少時から学業に秀で、20歳の時、明治政府の派遣留学生として、アメリカのプリンストン大学などで学びます。
★帰朝後久一郎は、エリート官僚として要職を歴任し、多くの実績を残します。退官後は三井財閥の日本郵船に天下り、上海支店長などを務め、実業界でも実績を残しました。26歳の時、恩師の儒者鷲津毅堂から人物、識見、仕事ぶりを認められ、二女恆と結婚。久一郎は闊達な性格で、家庭では謹厳実直な家父長として絶対君主のように振る舞いました。妻恆は古典・伝統文芸に通じ、良妻賢母の女性でした。
★父は、荷風を永井家の跡取りとして、東京帝大を出て、父と同じ道に進むことを期待。しかし、病弱の荷風は、第一高等学校受験を前に発病、入院・転地療法で受験に失敗、東京帝大への道は断たれます。荷風は父の期待を裏切ったことと、学歴コンプレックスに終生悩みます。
★病気療養中、18歳で荷風は初めて遊郭・吉原に足を踏み入れます。樋口一葉の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」を読んで、遊郭に多大な興味を抱きます。この2作に感動した荷風は、「遊意止みがたく」、吉原、洲崎、品川、板橋など都内の遊郭を渡り歩くことになります。
★父久一郎は、荷風の行末を案じ、実業界への転出を求め、箔を付けさせるため、日本郵船の支店長時代、アメリカに渡航させます。荷風はフランス文学に傾倒していたので、フランス行き望んでいました。しかし、父に胸の内を明かせないまま、アメリカに渡ります。滞米5年、各地を旅します。
★その時の紀行記を「あめりか物語」として出版、これがベストセラーになり、荷風は洋行帰りの新進作家として、一躍有名人になります。進路に迷っていた荷風は、小説家として生きることを決心します。
★当時作家は「三文文士」と言われ、文士は貧乏と決まっていました。明治・大正の小説家で家を持っていた人は一人もいません。荷風は洋行帰りにふさわしく、颯として背広を着こなし、颯爽と銀座界隈を闊歩しました。背が高く容姿端麗、おしゃれな荷風は、花柳界でもモテモテでした。

以下、◎印は本書から抜粋・要約したものです。荷風は名文家と言われています。漢文調の文章は原文のまま載せます。

◎荷風が帰国した明治41年7月は、第2次桂太郎内閣がスタートした時期だった。同内閣は発足と同時に社会主義的運動や思想、さらにはこのような傾向の集会、出版に強硬姿勢で臨むことを表明。荷風の「ふらんす物語」や荷風の恩師・森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が風俗を壊乱する、として発禁処分になる。
◎「ふらんす物語」に続き「歓楽」が発禁処分を受け、孤立感を深めていた荷風は、明治42年 夏、銀座木挽町の茶屋に、俳人で蔵書家だったある病院長に招かれ、その席で、新橋・新翁家の美人芸者富松を知る。富松24歳、荷風30歳だった。やがて2人は深い仲になる。
◎明治43年2月、荷風は文豪森鴎外、京都帝大教授上田敏の推薦を受け、31歳の若さで慶応大学文学科教授に就任。当時、慶應義塾大学では、自然主義文学の牙城となっている早稲田大学の文学科に対抗して、文学科を刷新すべく改革に取り組んでいた。そして教授陣充実の象徴として、「主任教授は誰が適任か」を森鴎外に相談していた。
◎鴎外の第一候補は夏目漱石、二番手が上田敏だった。漱石は既に朝日新聞社に入社し、連載小説を書くことになっていたことから断念。上田敏もフランスから帰国後、京都帝大教授に就任したばかりだった。鴎外と上田の話し合いの結果、荷風に白羽の矢が立つ。
◎荷風は慶大文学科教授への鴎外、上田敏の推薦を思わぬことと大変喜んだ。「放蕩息子」に初めて両親に面目を施す機会が訪れたからだ。出版禁止処分を受け、作家としての先行きに不安を覚えていたこともあり、未経験の大学教授の道に少し気が晴れる思いも抱いた。
◎しかし、自身の学歴を考えた。外国語学校で清語を習い、米国の大学でフランス語を熱心に勉強し、上田敏と並びフランス語については達人の域にあった。が、第一高等学校の受験に失敗したことから、学歴は中卒だった。慶大教授の肩書は荷が重い気がした。
◎二の足を踏み、迷いが晴れない荷風に対し、富松は「推薦した人たちは貴方の学歴など全てを承知した上で勧めているのでしょう。あなたが学者でないことも、道楽者だってことも、女たらしだってことも、根っからの小説家だってことも。遠慮するところはないじゃないの? 学者が大勢いるのに、選りに選って学者でもないあなたに白羽の矢を立てたというには、何かあなたでなければならない訳があるんだと思うわ」と背中を押した。
◎慶大文学科教授となった荷風は、6年間教壇に立ち、フランス語、フランス文学、文学評論の講義をした。明治43年5月、「三田文学」を創刊。作家として「三田文学」に作品を寄稿しながら、大学教授として学生相手に講義をするという慌ただしい生活をスタートさせていた。そしてほどなく6月ごろ、荷風は八重次と運命の出会いをすることになる。
◎八重次と荷風が親密になるきっかけは、明治座だった。市川左団次の「平維盛」などを観劇していた八重次は、途中で気分が悪くなり、席を外して場内の休憩室に向かった。そこで浮かぬ顔をした荷風を見つける。「ご気分でもお悪いんですか」と尋ねると、荷風は好きだった新橋の芸者がある富豪に落籍された、と富松の一件を話す。
◎八重次は「先生を捨てるなんて…」などと荷風の肩を持って慰めた。そして「お淋しいでしょう、先生。もやもやした時は、いつでもいらして下さい。誰かに話をするといくらかでも、気分が紛れるといいますから…」と言葉を継いだ。
◎それから数日後の夜更け、日吉町の八重次宅の戸を叩く者がいた。誰だろうと戸を開けると、荷風が表で一人立っていた。荷風の言い分は「遅くなり、車がなくなり、帰れない。どこでもいいから泊めてくれ」、それをきっかけに荷風は毎晩、八重次宅を訪れるようになり、二人は「交情蜜の如し」と言われる仲になる。富松との逢瀬を重ねながら、八重次の家から慶大に通うようになる。自尊心を傷つけられた富松は、啖呵を切って別れる。荷風は新橋の芸者宅から慶大に通っている、との噂も広まった。
◎八重次は新橋芸者としては駆け出しだったが、並みの芸者ではなかった。新潟・古町の妓楼「庄内屋」の養女として5歳の時から遊芸をしこまれ、14歳で「文藝倶楽部」の口絵を飾る全国の名妓の一人に選ばれていた。
◎この年の師走、荷風は八重次に「しばしの間のおわかれも全く心にかかりいろいろの事案じられ候」という絵葉書を送った。毎日のように会っていた親密な二人に、この荷風の文面は、唐突感があり、違和感がぬぐえない。年の瀬の荷風の心配事は何だったのだろうか。八重次は出産のため弟が住む京都に行っていた。
◎荷風と八重次との間の実子ではないか、とみられる内田芳夫氏が生まれたのは戸籍上では明治44年7月5日。ただし実際は6月17日。いずれにしろ、芳夫氏の誕生から逆算すると、八重次が妊娠したとすれば、明治43年9月頃となる。
◎明治座で「平維盛」を観劇した後、「交情蜜の如し」といわれるほどの仲になった時期にほぼ一致する。荷風の心配事とは、八重次の妊娠を知り、どうしたらいいか、思いあぐねていたことではないか。
◎荷風は大正元年9月、一般女性と突然見合いをし、結婚すると言う挙に出た。相手は本郷湯島で手広く商売を営んでいた材木商斎藤政吉の二女ヨネだった。明治天皇が同年7月30日、崩御。年号が大正となり、明治天皇の御大葬が行われた直後だった。荷風は33歳、ヨネとは10歳以上の開きがあった。
◎数多くの女性と浮名を流してきた荷風の相手はほとんどが玄人の女性だった。女性操縦にたけた荷風から見ればヨネは幼子同然の女性だった。何とも不釣り合いな新郎新婦の結婚だった。この不可解な荷風の結婚は、荷風が自分の思想、信条より両親への親孝行の気持ちを優先させた結果とみるしかない。
◎荷風の父久一郎、母恆にとって名家永井家の長男荷風が嫁を取らず、いまだ一家を構えていない、ことが最後に残る大きな悩みであった。精力的な交際家であった久一郎は前年末、日本郵船を退職し、自宅で悠々自適の生活を送る身となった。久一郎、恆の2人にとって荷風が作家として高名を博したことは「息子にそんな才能があったのか」と大変な驚きだった。また慶大教授という特別な社会的身分を得たことは想像外の出来事だった。この上は「荷風が結婚することでつつがなく永井家を存続させてほしい」という願望が募った。
◎荷風がこうした両親の気持ち、願いに抗しきれず、荷風のイメージにそぐわない結婚という決断をしたのは間違いない。幼少時から心配を掛け通しだった親に対し、荷風が自分に出来る最後で最大の「親孝行」と考えて、決断した、と見るべきだろう。フランスから帰国直後の、あの颯爽とした、黒のボヘミアン・タイを風になびかせ、銀座通りを闊歩した荷風の面影は微塵もない。洋装を捨て和服を着こなす荷風になっていた。
◎荷風と八重次の噂は文壇関係者の間などに広まっていた。荷風という愛人を得た八重次の芸者としての艶姿も関心を呼んだ。劇作家長谷川時雨は、歌舞伎座や帝劇で荷風と連れ立って現れた和服姿の八重次を見て、「近代美人伝」の中で、「黒羽二重に草色の重ねが白襟に、いかにも時にあって新鮮に感じられた。そのおりわたしは、実に心の働く女性(人)だと思って眺めていた。荷風氏の心持をすっかり飲み込めた筈だと、失礼にもそんなことにまで立ち入って感じていた」と書いている。

『閑話休題』

★明治43年2月、荷風は31歳の時、森鴎外の推薦で慶大教授の要職に就きます。6月、新橋巴屋の芸妓八重次と運命的な出会いをし、「交情蜜の如し」と言われた深い仲になります。翌年6月17日、八重次は荷風の実子と推測される子を出産します。その子は八重次の実弟夫婦に預けられ、実弟夫婦の実子として育てられます。これが実子ミステリーの真相です。
★荷風が慶大教授に就任した2年後、荷風は、父の勧めで一般女性斎藤ヨネと見合い結婚します。父久一郎は現役を引退し、悠々自適の生活に入っていました。両親にとって最大の悩みは、跡継ぎである荷風の行末でした。学歴のない荷風が、慶大教授という社会的身分を得たことは、両親の心配を払拭する大きな出来事でした。
★あとは嫁を取り、永井家を継いでくれることでした。荷風も両親の思いは重々承知していました。ヨネとの結婚は、両親に対する「親孝行」でした。実子はヨネと結婚する前に誕生していました。愛のない偽装結婚でした。ヨネとの新婚生活を送る傍ら、八重次との濃密な関係は続きます。荷風と八重次の実子を身ごもったのは、ヨネと結婚する前でした。

◎父久一郎と和解したとはいえ、厳格な家風の永井家では家父長である久一郎に荷風は最後まで逆らうことができなかった。八重次の出身は、祖父が始めた新潟市古町の鮨屋「翁ずし」の娘、可愛さを見込まれ、妓楼・庄内屋の養女に貰われた。かつては殿様の名家の嫡男荷風と、芸者八重次とは身分が違い過ぎた。「身分の違い」という今では死語が当時、まだ生きていた。「士農工商」という徳川300年の遺訓は、明治維新を経ても、人々の意識、また社会の隅々に残っていた。
◎芸者との色恋沙汰はともかく、荷風が世間に向かって八重次の存在を表立って言うことははばかられた。八重次との間に子供までできていた、との話が表面化したら、廃嫡の憂き目に遇う。一方、荷風は八重次に対しては、ヨネとの結婚はあくまで形式的なもの、と釈明し、納得して貰おうと説得に動いた。お互い好き同士であったが、荷風と八重次の関係は決して対等な間柄ではなかった。
◎当の八重次はどう受け止めていたのだろうか。「婚礼のその夜、荷風さんの邸の前で自殺していまおうかとも考えました」との八重次の言葉がある。「藤蔭会50年史」には、「八重は人一倍嫉妬心が強い。それだけに彼女は煩悶した」と書かれている。
◎荷風は10月28日、八重次に手紙を出した。「先日よりいろいろとお前様の行末を考え居候。今日までは何も彼も承知の上にて鬼のようなることばかり致し今更後悔先に立たずせめてはお前様の今後の身の上に何かのたしにも相成るよう幾分にても私の身にて出来るだけの事致さねば心にすまずと存居候、今までの薄情は夢と思い御許下され度候。明日1時ころ学校の帰りおたずね致し万事お話し致度候につき是非にも御在宅下され度候」、随分身勝手な謝罪ととれる内容の手紙だった。
◎「鬼のような事ばかり致し」とは、2人の間の実子を八重次の実弟夫婦に預け、手放したこと、さらに八重次の存在を無視して親に従い、突然見合い結婚に踏み切ったことが挙げられるだろう。数日を経ずして、荷風は新婦ヨネの目を盗んで八重次と会った。
◎こうした荷風の不始末を叱責するかのように、荷風にとって予想外のことが突然起きた。父久一郎が12月30日夕、自宅で脳溢血のため倒れ、意識不明となった。久一郎は翌正月2日の明け方、昏睡状態のまま亡くなった。
◎永井邸には親戚、久一郎の知人、友人、部下ら関係者が次々と集まり、憂色に包まれた。「父倒れる」の急報で、母恆の鷲津家を継いだ次弟貞二郎は勤務先の水戸からすぐ駆けつけた。しかし、長男荷風の行方は永井家が八方手を尽くしたが、分からなかった。
◎実は荷風は数日前から箱根の塔ノ沢温泉に行き、八重次を呼び出して湯治と洒落こんでいた。八重次を慰めるのが目的だった。29日、帰京したものの八重次宅に泊まった。翌朝、帰宅しようとしたが、八重次に引き留められ、そのまま流連していた。
◎荷風はこの痛恨の一事を久一郎の月命日に当たる大正15年正月3日の「断腸亭日乗」に詳しく記述した。「予は日頃箱根の如き流行の湯治場に遊ぶことは、当世の紳士らしく思われて好むところにあらざりしが、その年にかぎり偶然湯治に赴きしいわれいかにと言えば、予その年の秋正妻を迎えたれば、こころの中八重次にはすまぬと思いいたるを以って、歳暮学校の休暇を幸い、八重次を慰めんとて予は1日先立って塔ノ沢に出掛け、電話にて呼寄せたりしなり。予は家の凶変を夢にだも知らず、灯ともし頃に至りて雪いよいよ烈しく降りしきるほどに、30日の夜は早く妓家の一間に臥しぬ。世には父子親友死別の境には虫の知らせということもありと聞きしに、平生不幸の身にはこの虫の知らだもなかりしこそいよいよ罪深き次第なれ」。
◎「夜のあくればその年の徐日なれば、是非にも帰えるべしと既にその支度せし時、籾山庭後君の許より
電話かかり、昨日夕方より尊大人急病なりとて、尊邸より頻に貴下の行衛を問い合わせ来るにより、内々にてちょっとお知らせ申すとの事なり。予はこの電話を聞くと共に、胸響き出して容易に止まらず。心中窃に父上は事きれたるに相違なし。予は妓家に流連して親の死に目にも遇わざるし不幸者となり果てたりと、覚悟を極めて家に帰りぬ」
◎「母上わが姿を見、涙ながらに父上は昨日いつになく汝の事を言い出で、壮吉は如何にせしぞ、まだ帰らざるやと、度々問いたまいしぞやと告げられたり。予は一語をも発すること能わず。

◎荷風は八重次との間に出来た子を八重次の実弟夫婦に渡してしまった。そのことで八重次が後々まで心を痛めている。その気持ちを荷風は重々分かり、ヨネを離縁し、1年後に八重次を妻に迎え入れた。
◎「八重わが家に来りてよりわが稚き時より見覚えたるさまざまの手道具皆手入れよく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家を外なる楽しみのみ追い究めんとしける放蕩の児も此こに漸く家居の楽しみを知り父なき後の家を守る身となりしこそうれしけれ」、人を滅多に褒めず、皮肉屋である荷風が、初めて知った家庭の味の楽しさを素直に吐露し、妻として尽くしてくれた八重次の数々の行いを無条件で礼賛している。「矢はずぐさ」は、荷風の数多な作品の中で極めて特異な作品である。八重次という存在が、気難しがり屋の荷風にここまで心境の変化をもたらさせたのか、と驚く。
◎しかし、その結婚も、女性への「性愛」という変えることの出来ない自分の性分の不始末に、さらに八重次の嫉妬心も重なって破局に至った。八重次には詫びようがない。作家として自分に出来ることは何か、恥をさらしてでも「交情蜜の如し」の顛末を、作品として後世に残すことではないか。そこで「矢はずぐさ」を書いた。わたしはそう解釈したい、と著者は述べている。
◎作家吉屋信子によると、藤蔭静樹は酔うと「矢はずぐさ」の文章を一字一句たがえず朗々と暗唱して聞かせたそうだ。「八重去ってよりわれ復肴饌(こうせん)のことを云々せず、机上の花瓶永へに亦花なし」この文章をサワリのように三唱し、心地よげに自己陶酔した。その姿はいじらしかった、という。藤蔭静樹にとって「荷風の妻の称号」は「女の勲章」だった。吉屋はそう述懐している。

◎荷風と別れ、新橋で再び芸者屋を営むようになった八重次こと静枝は、舞踊家として生きる覚悟を決めた経緯を、戦後の昭和25年12月、サンデー毎日に発表した「自叙小伝」で振り返っている。
◎荷風との別れについては改めて「焼けぼっくいに火が付いた」、それも前より以上に烈しい火が、私は元々嫌で逃げ出したのではない。好きなればこそ飛び出したのだから、この再燃を心から嬉しく思い、荷風を昔通りの夫と思って仕え、暮らした。ところがこの人、元来熱し易く醒め易く、他所の花がすぐに良くなる人、例によって3日に1度、半年に1度となって来た」。
◎「これではじりじりするのは前回同様私だけ、ここでまた私の負けで恋しさからの苦しさ、侘しさからの味気なさは、遂には思い切るか死ぬかの文字通りのぎりぎり。たまりかねてまた逃げ出したのが箱根の山中、強羅の奥に引き籠って、この断ち切れぬ愛執のきずなと日夜戦った」、「切れよう、そして生きよう、私は芸に生きるのだ、舞踊に、創作に、それを恋人にしよう、薄情な荷風なぞ犬にくれてやれと、決意を堅めたわけだ」。

◎新橋で芸者屋を再び開き、再出発した静枝は大正5年秋、大阪、京都で開かれた「東西名流演芸大会」に出演し、「亰鹿子娘道成寺」を踊った。そして帰京すると、胸の中に「舞踊会」を持ちたいという願望が一層強くなった。師匠勘右衛門に話すと、意外に「いいだろう、やりな」と簡単に許してくれた。しかも「おめえ、その会で「四季の山姥」を踊りな、だれもやらねえから、それがいいだろう」と八重次の出しものまで決めてくれた。会の名称は、静枝を応援していた洋画家和田栄作が提案の「藤蔭会」に決まった。
◎大正6年5月、日本橋の常盤木倶楽部で、記念すべき藤蔭会第1回公演が開催された。静枝は会が持てたことを心から喜び、「もう藤蔭会ははなさない。私はどんな苦難が襲って来ても、藤蔭会と歩もう」と決心する。張りきった静枝は同年9月30日、有楽座で第2回公演を催した。この会で静枝は初めて長谷川時雨作「出雲於国」を上演、新舞踊運動の先駆者として旗幟を鮮明にした。
◎藤蔭会第7回公演は、大正9年9月、静枝の故郷・新潟市の新潟劇場で開催された。八重次は藤間流の踊りの名手・藤間静枝として、また作家永井荷風との結婚・破局で全国的に名を知られていた。このため前評判が高く、3日間とも千人を超す観客で大入り満員となった。100人以上の古町の芸妓が大挙して賛助出演するハプニングもあり、地元新潟でのビッグニュースとなった。失意のまま、あるいは夢を追い、何度か上京して新潟を離れた静枝は、晴れて故郷に錦を飾ることが出来た。

◎荷風が小説の舞台として玉ノ井に強い興趣を覚え、玉ノ井詣でを始めたのは昭和11年の二・二六事件から間もない4月からである。「娼婦の生態を描いてみたい」という欲求に駆られたのだ。
◎当時43歳の荷風の調査は徹底していた。自分で歩いて確かめた色街の詳しい地図をまず書き上げた。麻布の自宅「偏奇館」から電車とバスを乗り継ぎ、どぶの臭気と、どぶ蚊の絶えない、路地が入り組む玉ノ井へ通った。愛用のカメラを離さず、玉ノ井ならではの女性や路地風景を熱心にカメラに収めた。
◎5月16日の「玉ノ井見物の記」の中に、路地裏風景と共に、「1時間5円を出せば女は客と共に入浴するといふ。但しこれは最も高価の女にて並みは1時間2円、一寸の間は壱円より弐円までなり、路地口におでん屋多くあり、ここに立ち寄り話を聞けば、どの家の何という女はサービスがよいとかわるいとかいふことを知るに便なり。東北生まれの者多し。越後の女も多し」。この見聞録が「墨東奇譚」となる。

◎昭和12年は「墨東奇譚」の新聞連載の他、荷風にとって忘れられない年となる。母恆の死である。恆は9月8日、東京・西大久保の弟威三郎宅で亡くなった。76歳だった。翌日使いの者が来て荷風は母の死を知った。母親の病状が悪化していく事情を、荷風は春ごろから重々承知していた。親戚から何度も連絡が入り、見舞うよう勧められていたからだ。荷風は母を見舞うべきか、それとも弟威三郎とのこれまでの関係に固執して無視を装うか迷っていた。
◎そこで注目すべき記述が「断腸亭日乗」に現れる。「4月7日、鷲津郁太郎再び書を寄こす。母上病重いとの知らせ。夜ひそかに内田八重を電話にて招き、母上御臨終の際、余の取るべき態度につき語るところあり。八重の車にて帰えりし時は深夜1時なる」。
◎昭和に入ってほとんど交際の途絶えた関係だった内田八重こと藤蔭静枝に荷風自ら電話をかけて呼び出し、相談したのだ。静枝が創設した新舞踊の藤蔭会は20周年を迎えようとしており、静枝は舞踊界のみならず演劇、音楽、美術など多方面から注目を浴びる存在になっていた。
◎静枝は荷風からの突然の電話にさぞ驚いただろう。同時に、内心嬉しさがこみ上げたのではないだろうか。相談事が、荷風の母親の病状悪化に関する重大事だったからだ。荷風は母の葬儀には参列しなかった。

◎千葉・市川の住宅街で、荷風の遺体が見つかった。閑静な住宅街は、にわかに騒然となった。近所の医師の他、変死と見て市川署の鑑識係も駆け付け、検死を行った。自宅に通じる路地には警官2人が見張りに立ち、周辺は事件現場のような様相を呈した。
◎終の棲家となった自宅は、京成線京成八幡駅北側すぐの路地裏にあった。平屋の質素な家で、荷風は3年前の暮れ、約40坪の土地を購入、自宅を新築した。戦後、荷風の浅草通いは毎日、規則正しく続いていた。しかし、年齢が70歳半ばを超えると、浅草通いの日参も体にしんどくなった。「駅が近いのは便利」。自宅を新築しての転居は、老齢の荷風が熟慮を重ねた上での決断だった。
◎荷風は部屋の掃除、簡単な身の回りの世話を、福田とよさんという近所の老女を雇い、頼んでいた。親類縁者など世間との付き合いはほぼ絶ち、老齢の身を案じる知人の援助の申し出もかたくなに断って、荷風は独居生活を続けていた。とよさんは字が読めなかった。詮索嫌いの荷風はこの点を気に入り、雇った。
◎遺体が見つかった部屋は、書斎兼居間で寝室も兼ねていた。天井には蜘蛛の巣が張り、荷風は普段からとよさんがこの部屋に入るのを拒んでいた。
◎遺体の荷風は、紺色の背広の上着にこげ茶のズボン姿だった。頭に茶のマフラーがかかり、万年蒲団の畳に半身を乗り出し、うつ伏せで息絶えていた。外出帰りのまま寝込んだのか、普段から着替えることなく床に付いていたのか、判然としかねた。
◎死顔は安らかで苦悶の表情はなかった。が、大量に吐血し、頭部付近の約30センチ四方は血に染まっていた。枕元の火鉢には吐いたらしいご飯つぶが付いていた。近くに数冊の本とともに、終生敬愛してやまなかった恩師、文豪・森鷗外の「澁江抽斎」の本があった。4分の1ほどの頁が開かれたままになり、そのページにも血痕があった。

★永井荷風 昭和27年11月文化勲章、文化功労者、芸術院会員、昭和34年4月30日没 73歳

★藤蔭静樹 昭和35年紫綬褒章 昭和39年文化功労者 昭和41年1月2日没 85歳
                                         完
        

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