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最近思うこと

エッセイ「魂の教育」を読んで(2025.3.31)        

★森本あんりの「魂の教育」を読みました。一見女性を思わす名前ですが、れっきとした男性です。しかも国際基督教大学、プリンストン神学大学などを経て、国際基督教大学教授、東京女子大学学長を務めた神学者でクリスチャンです。堅物を絵に描いたような経歴にびっくりです。
★この経歴とは裏腹に酒を飲み、たばこも吸い、挫折や失敗もある、気さくでざっくばらんな人物です。神学者といえば、近寄りがたい謹厳実直な人物を想像しますが、親しみのある人物です。
★本名は「杏里」、ロマンチストで画家の父が命名、「杏」は中国崑崙山脈の彼方にある桃源郷から、「里」は理性・知性から引用、当時の役所はこの漢字名を受け付けなかったため、「あんり」と届け出。出生時の氏名は「福島あんり」、生母は5歳の時他界、父は資産家の森本家に子ずれで押しかけ、一人娘かおりと再婚、「森本あんり」になる。祖父母は元々この結婚に反対、彼は祖父母からいじめられ、暗くひねくれた人生が始まる。
★中学生の時、アマチュア無線の資格を取り、2階のベランダにアンテナを立て、交信するつもりだった。祖父に反対され断念。やがて両親は破局、父はあんりを連れて家を出る。
★高校生の時、親友を誘って開通前の地下鉄新駅に潜り込み、線路を彷徨、試運転電車に危うく轢かれそうになる、駅員にしょっ引かれ大目玉を食う。秘かに死を考えていた。
★高校3年の時、ある新聞社が「君は日本を知っているか」をテーマに懸賞論文を募集、新聞社の意図を見抜き、意に沿う論文を投稿、「若い魂を燃焼させた優れた作品」との評を得て入選、アメリカ西海岸とハワイ10日間の旅をせしめた。当時の彼は斜に構え、世の中を見下していた、入選は計算通りだった、と述懐。
★大学受験に懸命な同級生を尻目に、受験勉強などしなくても大学に入れると、あえて受験勉強はせず。自信家でプライドが高く、小生意気な鼻持ちならない生徒だった。しびれを切らした担任が「お前みたいなひねくれた奴にぴったりの大学がある」と、入ったのが国際基督教大学。当時彼は「宗教とはまさに愚か者の選択」、「宗教は民衆のアヘン」、「天地がひっくり返ってもキリスト教徒になることはあり得ない」と考えていた。
★そんな彼が20歳の時、洗礼を受けキリスト教徒になる。きっかけは波多野精一の「時と永遠」。波多野はこの著書のなかで、創造の神は「人間的主体を壊滅の淵より救い出す神の愛として特に体験される」と述べた。
★森本は、あのまま(悪ガキ)いっていたら死んでいたはずの私が、感謝のうちに生を受けとめられるようになった、そんな風に私を造り変え生まれ変わらせることが出来る神だから、天地の創造者でもあるのだ、この私を神へと向き直らせることに比するなら、全宇宙を一瞬にして創造することなど、神にはまったくたやすいことだ、とクリスチャンになった理由を述べている。
★書名の「魂の教育」に添え、副題に「よい本は時を超えて人を動かす」とあります。著者がクリスチャンであることを踏まえれば、「魂の教育」とは信仰のことかと思います。良書を読むことも人格形成に役立つことだとうなずけます。しかし、これは浅学菲才の勝手な解釈だと思い知らされます。
★書かれている内容は、神学者らしくキリスト教を取り巻く、様々な問題です。神とはなにか、神はいるのか、信ずるとはどういうことか、現代人はキリスト教を信じられるのか、などです。
★各コラムには身近な出来事が書かれています。たとえば旧統一教会の山崎浩子、彼女は著者が翻訳した「福音主義神学概説」を読んで脱会、彼女の夫になりかけた勅使河原秀行氏が最近テレビに出て弁明したとか、イランのホメイニー革命やパレスチナ戦争の解説などなどです。時には大学教授として、聖書の一部を猥談やきわどい話にたとえて講義したりします。
★しかし、それはイントロで、彼が紹介するのは神学にまつわる書籍とその主張にあります。この部分になると難解で理解するのに苦労します。題名だけ挙げれば、新旧聖書は当然ながら、マルクス「ヘーゲル批判」、森有正「ドストエフスキー覚書」、ウエーバー「古代ユダヤ教」、井筒俊彦「コーランを読む」、北森嘉蔵「神の痛みの神学」、バルト「ローマ書」、バーガー「聖なる天蓋」など、以下略。
★私が理解できたのはほんのわずかです。キリスト教が「原罪型」と「戒律型」に大別されるという説明は理解できます。「原罪型」とは、人間の存在それ自体が罪という概念です。行為ではなく存在です。「人は生まれながらに罪深い存在であり、信ずるものは救われる」は「原罪型」です。
★「戒律型」は、イスラム教徒の行為を見ればうなずけます。毎日5回の礼拝、ラマダン中は飲食不可、豚肉はダメ、女性はヘジャブ着用など、これらは一見厳しい戒律ですが、守らなくても罰にはなりません。緩やかな制度です。
★世に無神論者とうそぶく輩がいます。かくゆう小生もその仲間です。神は見えないが故に信じないというのが無神論者です。しかし、愛するわが子が重病になり医者から見放された時、最後に頼るのは神です。絶体絶命、万事休すも神に祈ります。「困った時の神頼み」です。
★神は「自然」という説があります。自然は人間の造形物ではありません。そのたたずまいこそ神であるとの説です。山岳信仰はその一例です、「国破れて山河在り」は無神論者にもうなずけます。
★キリスト教を巡る論争はいまだに決着が付いていません。神学者は昔から他人の神学を批判してきました。今世紀偉大の神学者、バルトとブルナーの神学論争は有名です。この2人は「弁証法神学」の両雄として現代神学の基本的骨格をつくり上げた神学者です。
★ブルナーは「自然と恩寵」で人間には啓示を認識し、これに応答する責任能力が付与されていると主張、これに対しバルトは「否!」という論文で、神と人間を結びつけるいかなる試みも拒絶する、と反論しました。
★書名の「魂の教育」とは、著者の読書遍歴を見て、よい本を読むことが、立派な人間をつくる源だと、理解していました。果たして正解は。
★著者は5歳の時、生母と死別します。死の1年前母は洗礼を受けクリスチャンになります。彼はこのことを親戚の人から聞いていました。しかし、半信半疑でした。ネットで母が通っていた九州の教会を見つけ、母が信仰を告白した手紙が見つかりました。その全文は以下の通り。
★「1年あまりをかけて、ようやくキリスト者として生きる決心ができた。将来の不安はあるが、すべてをよきにはからってくださる神を信じて、与えられた残りの人生を過ごしてゆきたい。特に、後に残してゆく子どもを、神の手に委ねる。この子の魂の教育を、主たる神に委ねたので、そのことについては、今自分は安心して死を迎えることができる」