天皇退位(2017・1・29)
★天皇の退位について有識者会議が論点整理を公表しました。その要旨は「一代限りの特例法」と「皇室典範の改正で恒久化」の両論併記です。どちらかと言えば前者を推す内容になっています。私も前者に賛成です。
★昨年8月、天皇は「お言葉」で退位を表明されました。その後の世論調査によれば、国民の多くは「皇室典範」を改正し制度化することを望んでいます。筋論としてはその通りですが、先ずは現実的な対応を考えるべきと思います。

★ご高齢の天皇にこれ以上のご負担をかけるべきではありません。象徴として十分にお役目を果たしました。リタイアして余生をご自分のために使っていただいても国民は納得するでしょう。
★今上天皇は、人間天皇を宣言された昭和天皇のご遺志を継ぎ、象徴天皇としてのあり方を追い求めてきました。これは立派なお姿です。その陰には皇后陛下の献身的な支えがありました。
★ご成婚の経緯は、下世話にいえば、皇太子(当時の)の一方的な片思いです。美智子さまに好きな人がいたかどうか知りませんが、悩みに悩んだ末に、天命と考えプロポーズを受け入れたのだと思います。
★皇后となってからは、自己を抑制し、ひたすら天皇のため、皇室のため、国民のためを考え行動してきました。まったく頭の下がる思いです。天皇が象徴としての歩みを続けられたのは、皇后あってのことだと思います。皇后さまにもゆっくりお休みいただきたいと思います。
★天皇が退位すれば、皇太子が皇位を継承します。これは問題ありません。懸念は雅子妃と愛子さまです。ご結婚のいきさつは、天皇の場合とよく似ています。しかし、その後の歩みは大きな違いがあります。
★有識者会議が“一代限り”というのは、この辺りのことも考慮したのだと推察します。私がこの案を支持するのも同じ理由です。
★日本の皇室制度は「万世一系」論がベースになっています。初代天皇は神武天皇で、今上天皇は第125代になります。皇室典範では男系男子に限ると規定されています。これらのことが天皇退位の問題を複雑にしています。
             学校給食(2017・2・12)
★2月9日、地元の小学校に招かれ、70年ぶりに学校給食をご馳走になりました。当校では社会体験学習の一環として、地域の町内会を訪れ、住民との交流や体験活動をしています。
★昨年、3年生は老人部とグランドゴルフの体験をしました。4年生は福祉部の「ママ・ちびっ子集まれ」と「福祉パトロール」に参加し、幼児と遊んだり、独り暮らしのお宅を訪問して “お元気ですか” などと声を掛けてもらいました。
★「ママ・ちびっ子集まれ」は、生まれたばかりの赤ちゃんから保育園に入る前の幼児が対象の行事です。子育てに悩むヤングママの息抜きと情報交換の場として、町内会館を解放しています。普段は大人が相手をしていますが、小学生が来てくれるとキャッキャッと声を上げて喜びます。乳幼児ながらお兄ちゃんお姉ちゃんの方が身近に感じるのでしょう。
★「福祉パトロール」は、独り暮らしのお年寄りを訪問し、安否を確認したり、困ったことがないか聞いたり、励ましたりしている活動です。これも普段は福祉部のメンバーでやっていますが、小学生と一緒に訪問すると、目を輝かせて喜んでくれます。とかく籠りがちになり、子どもと接する機会が少ないためです。
★クリスマスの時には、生徒が手作りのカードやプレゼントを持参し、幼児やお年寄りに贈って大変喜ばれました。あるご老人は礼状を学校に送ったところ、年賀状をもらったと目を潤ませ感激していました。
★今回の給食は、そのお返しとして招待されたものです。町内から12人が参加し、4つのグループに分かれて生徒と給食を共にしました。この日の献立はヨーグルト、トンカツ、白菜の煮物、シチュー、それにご飯でした。
★参加者を代表して、お礼と感想を述べました。私が小学生だった頃の給食について思い出話しをしました。戦後、日本人は食糧難でひもじい思いをしました。アメリカから支援物資として脱脂粉乳が供与され、牛乳の代りに出ました。これが味も匂いも最悪で、まずくて食べられませんでした。先生の目を盗んで窓から捨てたりしたものです。私が牛乳嫌いになったのはこれが遠因です。
★それに比べるとこの日の給食は品数も多く、食材も新鮮で、栄養バランスが取れ、何より美味しい料理でした。あの頃は、脱脂粉乳とコッペパンが主で、時々すいとんや鯨の料理が出た気がします。鯨は貴重な蛋白源でした。往時と比べ、なんと平和で豊かになったものだと感じました。
★食事の前に、当番の生徒が手を合わせ、簡単な口上を述べた後 “いただきます” と声を掛けます。食べ終わると、全員が声を揃えて “ごちそうさまでした” と言います。
このやり取りを見て、戦時中のことを思い出しました。当時は 箸とらば、天地御代の御恵み、国と親との御恩味わえ、兵隊さんありがとう、お百姓さんありがとう、いただきます と感謝の言葉を唱和し、食べたものだと紹介しました。兵隊さんはともかく、お百姓さんありがとう、と言ったのは食べ物を大切にしなさい、という意味だと説明しました。私は今でもご飯粒ひとつ残さないで食べています、と話をしました。皆さんも残さずに食べましょう、と締めくくりました。
             疑心暗鬼(2017・3・26)
★恋人から連絡がないと、もしかして嫌いになったのか、ほかに好きな人でもできたのか、と疑心暗鬼や猜疑心に駆られます。これは日常茶飯に起きている出来事です。小説やドラマの定型パターンです。
★疑心暗鬼や猜疑心は、地位が高くなるほど強さを増すようです。北朝鮮の金正男暗殺事件は、それを天下に知らしめました。
★すべてを意のままに操る人を独裁者といいます。独裁者は政敵を倒し、身の回りを忠誠者(イエスマン)で固めます。それでも万全とは言えず、常に不安に駆られています。疑いがあると見るや、恐怖心のあまり抹殺に走ります。対象は親兄弟関係ありません。北朝鮮の粛清はその典型です。
★独裁政権は永遠に続きません。いずれ民衆の不満が爆発し、それが引き金となって崩壊に至ります。側近の裏切りも数多くあります。独裁者とはいえども安閑とはしていられません。これは歴史が示しています。
★古くは古代ローマの暴君ネロから、秦の始皇帝、ナポレオン、ヒットラーなど枚挙に暇がありません。近年ではルーマニア大統領だったチャウシェスク夫妻が公開処刑され、その生々しい映像が流れました。イラクのサダム・フセインも同様です。地下の洞穴から引きずりだされる姿は記憶に新しいところです。絞首刑の映像も公開されました。独裁時代との落差が大きく衝撃的です。
★わが国でも多くの事例があります。古代では崇峻天皇が蘇我馬子の命によって暗殺されました。信長は明智光秀の謀反で自害しました。秀吉は千利休に切腹を命じました。家康は身の潔白を示すため正室を殺害、嫡男を切腹させました。徳川幕府が300年続いたのは、歴史を教訓に前車の轍を踏まぬよう細心の注意を払ったからです。
★現代の独裁者は金正恩、習近平、プーチン、エルドアンです。わが国では安倍1強と言われています。ある意味で独裁者と言えなくもありません。
★独裁者への道には共通点があります。先ず権力闘争に勝つことです。そして周囲を身内で固めることです。その手段にはそれぞれのやり方、個性があります。もっとも荒っぽいのはライバルを粛清することです。金正恩、習近平、プーチンはそれでのし上がってきました。
★やり方が荒っぽいので、反対派から虎視眈眈と狙われています。それを防ぐために、自身を偶像化し、閣僚や主要ポストは身内で固め、親衛隊(軍隊)を強化し、隙を見せず万一に備えます。体制派は権力にすり寄り利権を獲得します。反対派は冷や飯を食わされ、それが怨念となりやがて反乱につながります。
★安倍さんにも独裁者としての共通点があります。最大のライバルと見なされていた石破さんを幹事長から閑職の地方創生相に追放し牙を抜いてしまいました。閣僚や党役員もイエスマンで固めました。さらに党則を変え3期9年の長期政権を目論んでいます。さすがに抹殺まではしませんが、巧妙な手法で独裁体制を敷いています。安倍さんに驕りやゆるみはないのでしょうか。
        「血圧測定」(2017・9・29) 

★血圧は様々な要因で変動します。体調が悪かったり、激しい運動をしたり、興奮した時は、血圧は大きく変化します。しかし、通常の生活をしている限り変動幅は小さく、3シグマに納まります。体温と似ています。
★したがって、普段と変わらぬ日常生活をしている限り、血圧は安定しています。もし日常生活が変わらないのに血圧が変化したら要注意です。何らかの異変があると考えられます。その意味では健康のバロメーターです。
★測定方法にも注意が必要です。一般的には数回測定して平均値を記録しろ、と言われています。小生の経験からすると、これは血圧を正しくとらえているとは言えません。朝起き抜けに測ると、殆ど高めに出ます。これは正しい数値とは言えません。少なくとも15分〜30分は続けて測るべきです。そうすると、血圧は安定してきます。記録は平均値でもよいと思いますが、小生は最小の値を記録しています。それは実際に示された数値だからです。
★測定する時の姿勢について、椅子に座って腕を伸ばすよう言われています。小生は布団に横になったままの姿勢で測定しています。これは病人が測定する時と同じです。定期健診などで血圧測定がありますが、医院での数値と殆ど違いはありません。
★小生は数十年に亘って朝夕欠かさずに血圧を測定してきました。それは20年程前に “朝高高血圧” と診断されたからです。それ以来、血圧降下剤を服用してきました。数年前に副作用現象が出て、自己判断で血圧剤の服用をやめてみました。その結果、副作用は収まりました。血圧は服用時と変わりません。血圧剤は飲み始めたら一生飲み続けなければならないというのは俗説です。
★薬局に行くと、薬品メーカー提供の「血圧管理手帳」が置いてあります。無料です。メーカーによって違いがあります。自分にあったものを選び、毎日欠かさず測定するとよいでしょう。
★ここに辿り着くまでには、試行錯誤がありました。因みに小生の血圧は、朝130/70、夕100/45、ばらつきは±5です。

        「日本人のなまえ」(2017・8・12) 
★NHKの番組に「日本人のおなまえっ!」という人名探索バラエティーがあります。これは日本人の名前(姓)をテーマにした番組です。苗字のランキングや珍しい名前、難しくて読めない名前あるいはその由来などが紹介されています。なかなか面白い番組です。
★私が出会った中にも珍姓、難姓の方が何人もいます。例えば、曇(くもり)、二十里(つりふじ)、生水出(しょうずで)、空閑(くが)、檜鼻(ひはな)、厨子(ずし)さんなどです。極めつけは興梠さんです。コオロギと呼びますが、自己紹介されるまで何んと呼ぶのか分かりませんでした。プロ野球では広島カープの梵(そよぎ)選手とDeNAの筒香(つつごう)選手は難しい名前です。
★私の姓はキタダです。電話で聞かれると “東西南北の北” に “田圃の田” と答えます。これで殆どの人は理解します。北田の姓は、村の北側にあった田圃から付けたのでしょう。この名前からご先祖様は百姓だったことが容易に想像できます。私が知る限り、数代前から農家でした。実に単純明快です。
★これに対しお袋の実家は毛呂といいます。この苗字からご先祖様の職業を想像することは簡単ではありません。実家の近くに菩提寺があります。先祖代々の墓が並んでいます。最も古いお墓は、文禄2年(1593)12月4日に没した毛呂左馬尉繁行です。現当主からもらった家譜(系図)によれば、この先祖は本名江田で、毛呂左馬尉繁行は官名のようです。新田郡上江田地方を差配していた武士だったようです。さらに遡ると江田兵部大輔源幸義に至ります。これが始祖のようです。“兵部大輔”は国軍副司令官の意味です。
★毛呂家始祖の姓は源です。源姓と平姓は臣籍降下(皇族がその身分を離れ、臣下に入ること)によって、天皇から与えられた姓と言われています。実家の始祖が本当に源氏とすれば、恐れ多くもわが体内に皇室の血が流れていることになります。
★毛呂家の系図を子細に見ると、途中でいくつかの養子縁組がなされています。中には夫婦養子もあります。すなわち、血のつながりは途中で途絶えています。恐らく、家名を残すために養子を取ったのだと思います。わが体内に皇室の血がないことはこれで明らかです。残念というより、ほっとしています。
★苗字がいつ頃から始まったのかよく分かりません。卑弥呼の時代になかったことは、はっきりしています。平安時代になっても苗字が付くのは、公家や貴族など特権階級に限られています。権勢をほしいままにした藤原一族も、始祖の中臣鎌足が、大化の改新の功績により、天智天皇から藤原姓を賜ったと言われています。
★われわれに馴染の深い清少納言や紫式部は本名ではありません。いわばペンネームです。本名は分かりません。絶世の美女と言われた小野小町も同様です。この時代、女性の名は滅多に明かさない習わしだったようで、実名ではなく通称で呼んだそうです。この3人はいずれも貴族です。義経は、“源九郎判官義経” が正式な名乗りですが、実名は義経で、九郎が通称です。
★苗字が広がるのは武士の時代になってからです。中央を追われた武士が、そこに定住するようになると、その土地の名を苗字にするのが流行ったようです。新田義貞、足利尊氏、木曾義仲などがそれです。江戸時代の苗字帯刀制によって、家柄や功労のあった平民には苗字を名乗ることが許されました。庶民に許されるのは明治維新後です。親父の先祖も恐らくこの頃に苗字を付けたのでしょう。世が世なら百姓の倅と武士の娘が結婚することなど考えられなかったことです。
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           横須賀製鉄所その1(2017・4・24)
★ペリーやヴェルニー、小栗上野介、横須賀製鉄所、観音崎灯台、走水水源地などは地元で知らない人はいません。しかし、アメリカ人のペリーが幕府に開港を迫り、日米修好通商条約を締結したのに、横須賀製鉄所(造船所)の開発をなぜフランス人のヴェルニーに委ねたのか、ヴェルニー公園になぜオランダ製のスチーム・ハンマーがあるのか、その理由を知っているのは、かなりの歴史通です。
★日本におけるメートル法の発祥地が横須賀で、「黌舎(こうしゃ)」という高等技術専門学校があり、その卒業生が日本の近代化に貢献したということは、よほどの通でないと知りません。私もその一人です。
★この知られざる歴史を体系的に解き明かしたのが、市の「自然・人文博物館」が刊行した『すべては製鉄所から始まった』の労作です。そのすべてを紹介する余裕はありませんが、いくつかを紹介します。
★ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が、嘉永6年(1853)浦賀に来航し、久里浜に上陸します。いわゆる「黒船来航」事件です。翌年、日本は開国に踏み切り、安政5年(1858)日米修好通商条約を締結します。その条約を批准するため、安政5年(1860)新見豊前守正興を首席とする使節団77人がアメリカに派遣されます。小栗上野介忠順はNO.3(目付)の立場で同行します。
★小栗はじめ幕府の役人は、アメリカの先進技術に触れ、日本の近代化には工業化の強化と造船所が必要であることを痛感します。帰国後、アメリカからの技術導入を前提に、優秀な留学生をアメリカに派遣し、江戸近郊に造船所建設の準備を進める計画を立てます。ところが、1861年アメリカで南北戦争が勃発、日本の要請に応じられない事態になります。やむなく幕府は、留学先をオランダに変更、1862年、榎本武揚らを留学生としてオランダに派遣、造船所は江戸の石川島を念頭に準備を始めます。スチーム・ハンマーはこの時に発注したものです。
★当時幕府は、欧米5ヵ国と通商条約を締結していました。アメリカの他にイギリス、ロシア、オランダもそれぞれに国内事情があり、技術協力を受ける国を探すのに難航していました。そんな中、フランスでは製糸業を支えていた「蚕(かいこ)」が伝染病にかかり、産業が壊滅状態となります。フランス政府は生糸の輸入と伝染病に強い蚕を海外に求めていました。このため、駐日フランス公使ロッシュは積極的に幕府への接近を図っていました。その仲立ちをしたのが、小栗と竹馬の友だった栗本鋤雲という人物です。栗本はフランス人カションと懇意だったことから小栗、ロッシュ、栗本、カションの4者会談が行われ、フランスへの委託が決まったと言われています。(この項、別資料による)
★かくして、横須賀製鉄所はフランス人ヴェルニーによって開発が行われます。彼は若干28歳で赴任し、日本の近代化に多大な貢献をしました。ヴェルニーの功績は、要約すれば、国産化の推進と人材の育成でした。知られざる秘話は次回紹介します。請うご期待!


世界遺産になった「富岡製糸場」は横須賀製鉄所にいたフランス人技師バスチャンの設計です。ナウマン象の化石もサヴァチェ医学博士の発見です。まだまだあります。(続きは次回)
        「不老長寿」か「PPK」か(2017・7・7) 
★高齢者をターゲットにした最大のビジネス?は振り込め詐欺です。これは悪いジョークですが、アンチエイジングを売り物にした商売は花盛りです。やれ青汁だ、シジミエキスだ、果てはスッポンエキスで現役復活だなど、サプリメントのオンパレードです。増毛やウイッグ、だぶついた腹をへこます器具など、高齢者の弱みに付け込んだ商品が、これでもかこれでもかと登場しています。
★「不老長寿」や若さを保つことは、秦の始皇帝や楊貴妃時代からの永遠のテーマです。しかしそれは「見果てぬ夢」となっています。
★若大将こと加山雄三は、小生と同じ歳です。若さの秘密は某メーカーの「セ〇〇ン」です。そのコマーシャルを見ると、彼は77歳になっています。若さを強調するために実年齢を偽っているのか、メーカーが広告費を節約するために、ケチって3年前のコマーシャルを使い続けているのか、そのどちらかでしょう。これは商品にとってマイナス効果です。
★初回に限り半額にするとか、30分以内にTELすればもう1個おまけを付けるとか、この機会を逃すとこの特典はなくなるとか、買い気を誘う説明が続きます。しかしこのセリフは年中変わりません。元々原価は定価の半分以下なのでしょう。
★これらの商品をすべて試したら、始皇帝や楊貴妃になれるのでしょうか。どなたか試しにやってみませんか。
★かつてある新聞記者が、功成り名遂げた大富豪に、残った望みは何ですか、と尋ねました。彼はすべての財産と引替えに若い時代に戻りたいと言いました。「永遠の若さ」は何ものにも代え難い魅力なのですね。
★若返りが見果てぬ夢と思いきや、それを実現する特効薬が見つかったそうです。老化制御因子「NMN」です。マウス実験では寿命が延びたことが実証されました。人間に当てはめると60歳が20歳に若返るという夢のような薬です。NMNは分子化合物で、あらゆる生物の細胞に存在しています。これが加齢と共に減少することが老化の原因だそうです。このNMNを若い時と同じレベルに戻そうという試みが、ワシントン大学や慶応大学で始まりました。若さを金で買える時代が到来しそうです。
★その一方で、老人ホームや終活、緩和ケア、終の棲家、葬儀の変化など現実を踏まえた話題も事欠きません。残念ながら、わが世代では「不老長寿」は見果てぬ夢でしょう。月並みながら「ピンピンコロリ(PPK)」がわが世代の理想形のようです。
   2017年投稿一覧
 投稿日    タイトル
 10月14日  秋の味覚「秋刀魚」
 9月27日  血圧測定
 8月12日 日本人の名前
 7月07日 「不老長寿」か「PPK」か
 6月09日 ボケ、認知症、記憶力
 5月25日 横須賀製鉄所
   その2
 4月24日 横須賀製鉄所
   その1
 3月26日 疑心暗鬼
 2月12日 学校給食
 1月29日 天皇退位
       横須賀製鉄所その2(2017・5・25)  
★前回は、アメリカから開国を迫られ日米修好通商条約を結んだのに、日本初の造船所(横須賀製鉄所)がなぜフランス人に委ねられたのかについて述べました。今回はそのフランス人が残した様々な功績について紹介します。
★ヴェルニーの功績は国産化の推進と人材育成でした。国産化を進めるために多くの優秀な人材をフランスから呼び寄せました。世界遺産になった「富岡製糸場」はフランス人技師バスチャンの設計です。火に強く、地震に耐えられる建築法として「木骨れんが造」が考案されました。これは木の骨組みと赤れんがの壁を組み合わせた建築法です。れんがの積み方は「フランドル積み」で、初代の観音崎灯台にも適用されました。この工法はやがて全国に普及します。赤れんがは製鉄所で製造されたものです。
★横須賀製鉄所は造船と船の修理を行うだけの施設ではなく、総合工場として様々な機能を備えていました。木工場の他に鋳物、鍛造、鉄、れんが、機械の組立工場などが次々に建設されました。これらの技術は日本各地の官営工場を支える役割を担っていきました。
★製品や工場の素材となる材料の研究も全国規模で進められました。木材の分布調査、伐採計画、輸送システム、セメントの国産化、ドライドック用の石材、地質、地盤の調査研究、強度、比重、耐久性などの工学的研究、品質管理、技術者や工員の教育訓練、工場運営・管理システムの導入、勤務時間の制定、メートル法の採用などです。
★造船は総合技術であり、その原点は横須賀製鉄所から生まれました。「すべては製鉄所から始まった」と言われる所以です。
★ドライドックの建設場所を調査する過程で、製鉄所の医師で医学博士のサヴァチェが象の化石を発見しました。これをナウマンが科学的に分析した結果、新種のゾウであると判明、彼の名前を取って「ナウマンゾウ」と命名されました。
★サヴァチェは植物学の権威でもあります。西洋の植物学を日本に伝えると共に、植物学者フランシエと発見した新種の植物に“ヨコスカ”や製鉄所ゆかりの“人物の名”を学名に付けました。帰国後、日本での研究成果を「日本植物目録」にまとめ発表しています。
★フランス人が果たした功績は多大ですが、ヴェルニーやフランス政府は日本人の優れた資質を高く評価しています。製鉄所建設の日本側責任者だった柴田日向守剛中がフランス、イギリスに出張し現地でヴェルニーと合流します。サムライ一行は、造船所は模倣や壮観、華美ではなくあくまで中身重視という姿勢でした。国の将来を背負って立つ気概と使命感、質実剛健、サムライ精神に触れたフランス政府は、彼等に惜しみない賛辞を贈っています。
★ヴェルニーは、エリートを養成するグランゼコールに匹敵する専門学校として、製鉄所内に「黌舎」を設立します。ここから日本の近代化を担う造船、工学、語学、外交、貿易、経営など様々な分野で活躍する多くの逸材を輩出しました。東京帝大教授工学博士(造船学)の櫻井省三、フランス文学翻訳者の川島忠之助、ドック設計のスペシャリスト恒川柳作、海軍造船大鑑を編纂した工学博士の辰巳一、造船技師で植物学者の佐波一郎などです。
★余談ですが、横須賀に浦賀ドックがあります。1853年(嘉永6)設立、1856年(安政6)に咸臨丸を整備した歴史があります。戦時中は駆逐艦などを建造しました。戦後の1951年、フランス海軍は浦賀ドックを海軍の修理工場に指定、56年まで29隻を修理しました。荒巻町にフランス海軍の宿舎が3棟あり、多くのフラン人が滞在していました。そのフランス人に杉山という柔道家が柔道を教えたと伝えられています。フランスが日本に次ぐ柔道大国になったのは、これがきっかけかもしれません。
★このようにフランスとゆかりの深い横須賀ですが、その歴史的遺産を引き継いでいるとは思えません。フランスレストランやフランスパン屋が少ないのはその一例です。どちらかと言えばアメリカンナイズされ、フランス人が残した遺産は活かされていません。横須賀市の活性化策として、学芸員の研究成果をもっと有効活用すべきと思います。
★例えば、地盤沈下が著しい商業の再生策として、目抜き通りをスクラップ・アンド・ビルドし、横須賀版シャンゼリゼ通りにしたら、世界中から観光客がわんさと訪れるでしょう。「黌舎」建学の精神を蘇らせ、グローバルな人材を育成する学園都市を作ったら、教育低迷都市の汚名を返上出来ることは間違いありません。

最近思うこと
先頭へ
        ボケ、認知症、記憶力(2017・6・9)     
★歳を重ねると、名前や文字がとっさに出てこない、昨夜食べたおかずが思い出せない、何でこの部屋に来たんだろう、など記憶力の衰えを実感する現象がしばしば起きます。直近のことは思い出せないのに、昔のことはよく覚えている、などと冷やかされます。
★ブレーキとアクセルを踏み間違えて、コンビニや病院に突っ込んだり、立体駐車場からバックで落下したり、高速道路を逆走したり、高齢者ドライバーの事故が多発しています。
★これらの現象をボケだとか認知症だとか、高齢者特有の現象だと言います。果たしてそうなのか。中年や若者にはないのか。それを防ぐ方法はないが遅らせることは出来ないのか。(注:ボケは老化現象、認知症は病気、念のため)
★人間の脳細胞は140億個あると言います。しかし1日10万個のペースで死滅しているそうです。これが正しければ、加齢と共に記憶力が消滅していくのは当然です。直近のことが思い出せないのは、メモリーする領域が失われているのかもしれません。その一方で、昔のことをよく憶えているのは、記憶装置にメモリーが保存されているからです。記憶がまだら模様なのは、メモリーがそのようになっているのでしょう。記憶は残っているが、検索する機能が働いていない可能性もあります。
★パソコンには内部記憶装置と外部記憶装置があります。かつてはフロッピーディスクという記憶媒体がありました。しかし今ではプロを除き、素人ではフロッピーからメモリーを取り出すことは出来ません。人間の記憶もこれと同じではないのか。記憶は残っているが引き出す方法に問題があるのではないか。何かのきっかけで思い出すのは、メモリーが残っている証拠だと考えられます。
★小生は長年血圧と体重を毎日測定し記録しています。これに加え、高齢者運転講習会を受けたのをきっかけに、前日の晩飯のおかず(メイン)を書くことにしました。“夕べ何を食べましたか”という質問があったからです。これは認知症テストの基本的質問のひとつです。この主旨は何を食べたかを問うのではなく、晩飯を食べたかどうかを問うものです。認知症が進むと食事をしたことを思い出せないからです。
★小生はボケのバロメーターとして、晩飯のおかずをメモるようにしています。朝、目が覚めると先ず血圧を測ります。洗面の前に体重を測り、それを記録し、ついでに晩飯のおかずをメモります。これが時々すっと出てこないことがあります。その時どうするか。方法は2つあります。第1の方法は、食卓に並んでいたおかずを思い浮かべます。冷奴があったな、野菜サラダもあった、漬物は奈良漬けだったな、と周りから攻めていきます。そうすると、ああトンカツだったとメインディッシュが出てきます。第2の方法は、食材や料理から迫る方法です。肉か魚かそれとも野菜か、あるいは和食か中華か洋食か鍋料理かなどです。この2つの方法で殆ど思い出すことが出来ます。
★この方法は記憶を思い出す上で示唆に富んでいます。キーワードがトリガーとなって保存されているモリーを呼び出すからです。昔のことを思い出すのは、鮮明な体験や出逢いがあったからです。すっかり忘れていたことを当時の日記や資料から思い出すこともあります。そういえばAさんと言う人がいたな、とかBレストランに行ったな、とかです。これらは日記がトリガーになって、記憶の奥底にあった思い出を蘇らせる事例です。こう考えると、ほとんどの記憶は残っていて、ただ取り出す方法が見つからないだけだと思われます。
★先日、認知症に関する興味深い研究発表がありました。認知症の前段階と言われる「軽度認知障害(MCI)」の高齢者を4年間追跡調査したところ、14%が認知症に進んだ一方、46%が正常に戻った、と国立長寿医療研究センターが発表しました。(読売朝刊6月7日版)
★解説によれば、高齢者でも認知機能が下がるとは限らない、MCIと判定されても認知機能を維持・改善出来る可能性は少なくない、認知症予防を目的とした運動教室など高齢者の健康啓発や生活習慣病対策などの行動改善が重要である、と指摘しています。さらに、認知症のリスク要因として、糖尿病や脳卒中、うつ傾向、身体活動の低下などがあるが、食事のバランスが良く、活動的で運動習慣のある人の方がリスクを減らせる可能性が高い、と述べています。頑張りましょう!!
        秋の味覚秋刀魚」(2017・10・14) 
★昨夜、秋刀魚を食べました。脂が乗ったふっくらしたうまい秋刀魚でした。秋刀魚を食べたのは、今年3回目です。前の2回は痩せてバサバサでした。今年は秋刀魚が不漁で、全体に小ぶり、値段も高いようです。海水温が高いため、秋刀魚が沿岸に近づかないのが原因だそうです。
★小生は、買い物に行かないので、女房の受け売りですが、秋刀魚は大きな木桶にばっさり入れられ、客が手でかき回すので、痛みがひどいようです。昨日は気張って、冷凍ケースに並んだ太めの秋刀魚を買ってきました。1匹100円でした。桶の秋刀魚より高かったようです。
★秋刀魚といえば、「目黒のさんま祭り」が人気です。毎年7,000匹が無料で振る舞われます。今年は不漁のため岩手県産が手にはいらず、北海道産で何とか開催にこぎ着けたようです。
★秋刀魚の食べ方には刺身や蒲焼、煮付け、酢じめなどがあります。小生はもっぱら塩焼き専門です。大根おろしと一緒に食べるのが、一番と思っています。欲を言えば、備長炭の炭火焼きですが、これは高望みなので、レンジで我慢しています。
★秋刀魚は、「秋に獲れる刀のような魚」から命名されました。言い得て妙、まさに名訳です。大正10年、佐藤春夫が「秋刀魚の歌」で使用してから、全国区になりました。
★秋刀魚はアジ、イワシ、サバと並んで大衆魚の代表挌です。しかし近年は乱獲や中国人の爆食で、品薄傾向になってきました。いずれ高級魚になって、庶民には高嶺の花になるかもしれません。天皇・皇后両陛下は召し上がるのでしょうか。昭和天皇はうなぎ好きで有名でした。秋刀魚も食卓にのったそうです。
★「目黒のさんま祭り」は、落語の「目黒の秋刀魚」が起源です。ある日、殿様が目黒まで遠乗りに出掛けます。昼頃、腹が空いたので、「秋刀魚の茶漬け」を食べたいと所望します。家来は、日本橋から高級秋刀魚を調達し、わざわざ蒸して脂を落とし、小骨を抜いて、出し殻のようになった秋刀魚を供します。殿様は、あまりにまずいので、“いずれで求めた秋刀魚か?” と尋ねます。家来は “日本橋の河岸でございます” と返事。それを聞いた殿様が “それはいかん、秋刀魚は目黒に限る” と仰せになった、これが原典です。
★数年前、済州島でこれに似た話を聞きました。ある王家の古老が、“魚には骨があるのか” と尋ねたそうです。済州島は伝統的に男尊女卑の島です。高貴な人は、骨をすべて取り除いた魚だけを食べていたようです。にわかには信じられませんが、あり得る話しです。
★因みにわが女房は、骨をきれいに取り分け、魚を食べます。見上げたものです。